昨日は青山で開催された川添愛さん、鴻巣友季子さん、吉田恭子さん(司会)のテーマトーク「AI時代の文芸翻訳」を聞いてきた。
AI翻訳は敵か味方か。最初の質問に対して大学で翻訳を教えている鴻巣さんは、学生にChatGPTを使わせて誤訳を指摘させているという。まずは自分で訳し、ChatGPTにかけて、誤訳を説明させるのだ。ChatGPTは膨大なデータから共起されるものを持ってきて「意味」は通じる文をつくることはできるかもしれないが、人間の脳が行っている細やかで複雑な創作にはスタイルがあり、意図を伝える文章にはまだできない、ということだ。たとえば、詩、言葉遊び、ジョーク、皮肉、罵倒語は難しい。
ChatGPTの訳と人による翻訳の違いを説明するのに、アマンダ・ゴーマンさんの詩が紹介された。英語の文は話に聞き入っていてメモを取りそびれてしまったのだが、人による翻訳として紹介された文を見てもらえばその違いはわかるに違いない。
「歩哨に立つ 初めての夜 月さやか」
原文も俳句詩で、訳文も七五調だ。
もうひとつ例に出された英語の表現として、Marble movieという言葉が紹介された。マーブル。この単語を聞いて、わたしたちはなにを思い浮かべるだろうか。音か、イメージか、色か、硬さか、冷たさか。内面世界の広がり方を訳語に含ませることができるのは人による翻訳ならではだろう。
人間と言語の関係を見てみると、時間の経過とともに、言葉の意味が変わってくる。たとえば、10代で読んだ本を50代で読み返すと、受け手によって意味が違ってくる。その例として比喩表現があげられた。黒柳徹子さんの自伝的小説「窓ぎわのトットちゃん」では、「ふかし芋のようなあなた」という表現が出てくる。男の子は褒め言葉のつもりで言ったのだろうが、トットちゃんは芋だなんて、と怒る。でも年をとって振り返ってみると、ふかし芋のように甘くて温かくてほかほかで、ということを言いたかったのではないかと思い当たる。
時代のなかの言葉の変遷として、もうひとつあげられたのは、Sisterhood。いまでは女性間の絆、連帯というポジティブな意味で使われる言葉だが、参政権や男女平等を訴えていた時代では、ネガティブな意味で使われていたそうだ。
そうやってわたしたち翻訳者は、個人の辞書をボキャブラリーとして蓄積してきている。言葉の個人史を編んでいるのだ。はたしてその意味でのシンギュラリティは訪れるのだろうか。
言語化するプロセスが紋切り型になっていくと、よりアウトプットは自動化されていく。たとえば絵文字。返信をスマイルマークで済ませたり、自動生成された文章で済ませたりしているうちに、気持ちと言語の関係が変わってくる。言語化する行為を放棄しているうちに、言葉が消え、物が消え、記憶が消え、感情が消える。わたしたちは言葉で形づくられている。知覚が統合され言語となり、身体性をもつ。言葉と身体。人が訳す文章には身体性があるということだろうか。
最後に罵倒語のChatGPT訳と人による翻訳の比較が紹介された。
It’s the Guardian reading, tofu-eating, wokaratti!
会場で紹介された鴻巣さんの訳はここでは紹介しないが、わたしたちも自分で訳してみてChatGPTと比べてみるとおもしろいかもしれない。
あっという間の1時間で、話に聞き入っているとメモの手が止まるという状態だったので、まとめが断片的かもしれないが、その点はご容赦願いたい。今回のイベントを企画してくれた駐日欧州連合代表部に感謝いたします。