「AI時代の文芸翻訳」まとめ・感想

 昨日は青山で開催された川添愛さん、鴻巣友季子さん、吉田恭子さん(司会)のテーマトーク「AI時代の文芸翻訳」を聞いてきた。

 AI翻訳は敵か味方か。最初の質問に対して大学で翻訳を教えている鴻巣さんは、学生にChatGPTを使わせて誤訳を指摘させているという。まずは自分で訳し、ChatGPTにかけて、誤訳を説明させるのだ。ChatGPTは膨大なデータから共起されるものを持ってきて「意味」は通じる文をつくることはできるかもしれないが、人間の脳が行っている細やかで複雑な創作にはスタイルがあり、意図を伝える文章にはまだできない、ということだ。たとえば、詩、言葉遊び、ジョーク、皮肉、罵倒語は難しい。

 ChatGPTの訳と人による翻訳の違いを説明するのに、アマンダ・ゴーマンさんの詩が紹介された。英語の文は話に聞き入っていてメモを取りそびれてしまったのだが、人による翻訳として紹介された文を見てもらえばその違いはわかるに違いない。

「歩哨に立つ 初めての夜 月さやか」

 原文も俳句詩で、訳文も七五調だ。

 もうひとつ例に出された英語の表現として、Marble movieという言葉が紹介された。マーブル。この単語を聞いて、わたしたちはなにを思い浮かべるだろうか。音か、イメージか、色か、硬さか、冷たさか。内面世界の広がり方を訳語に含ませることができるのは人による翻訳ならではだろう。

 人間と言語の関係を見てみると、時間の経過とともに、言葉の意味が変わってくる。たとえば、10代で読んだ本を50代で読み返すと、受け手によって意味が違ってくる。その例として比喩表現があげられた。黒柳徹子さんの自伝的小説「窓ぎわのトットちゃん」では、「ふかし芋のようなあなた」という表現が出てくる。男の子は褒め言葉のつもりで言ったのだろうが、トットちゃんは芋だなんて、と怒る。でも年をとって振り返ってみると、ふかし芋のように甘くて温かくてほかほかで、ということを言いたかったのではないかと思い当たる。

 時代のなかの言葉の変遷として、もうひとつあげられたのは、Sisterhood。いまでは女性間の絆、連帯というポジティブな意味で使われる言葉だが、参政権や男女平等を訴えていた時代では、ネガティブな意味で使われていたそうだ。

 そうやってわたしたち翻訳者は、個人の辞書をボキャブラリーとして蓄積してきている。言葉の個人史を編んでいるのだ。はたしてその意味でのシンギュラリティは訪れるのだろうか。

 言語化するプロセスが紋切り型になっていくと、よりアウトプットは自動化されていく。たとえば絵文字。返信をスマイルマークで済ませたり、自動生成された文章で済ませたりしているうちに、気持ちと言語の関係が変わってくる。言語化する行為を放棄しているうちに、言葉が消え、物が消え、記憶が消え、感情が消える。わたしたちは言葉で形づくられている。知覚が統合され言語となり、身体性をもつ。言葉と身体。人が訳す文章には身体性があるということだろうか。

 最後に罵倒語のChatGPT訳と人による翻訳の比較が紹介された。

It’s the Guardian reading, tofu-eating, wokaratti!

 会場で紹介された鴻巣さんの訳はここでは紹介しないが、わたしたちも自分で訳してみてChatGPTと比べてみるとおもしろいかもしれない。

 あっという間の1時間で、話に聞き入っているとメモの手が止まるという状態だったので、まとめが断片的かもしれないが、その点はご容赦願いたい。今回のイベントを企画してくれた駐日欧州連合代表部に感謝いたします。

『さやかに星はきらめき』(村山早紀著)

 11月21日に刊行予定の『さやかに星はきらめき』(村山早紀著)の読者モニターに応募してみた。ファンタジーは読むのが好きなので、SFファンタジーということで読みたくなった。読み始めてみると、ファンタジーとSFを行ったり来たりするような、ファンタジー好きにもSF好きにも楽しめる内容だった。なんといっても扉絵に惹かれた。イヌとネコとトリと女の子が窓から宇宙を眺めている。はて、これは一体、どういう設定なのだろうか。本書は五つの章で構成されていて、それぞれの章のなかで作中作が出てくる。いわゆる短編が五作品収録されているわけだが、書籍編集者が「人類すべてへの贈り物となるような本」を作るために集めたお話として紹介されていく。その編集者の名前がまたまたおもしろい。キャサリン・タマ・サイトウ。なんと猫を先祖にもつネコビトなのだ。彼女と一緒にこの本の企画を立てている副編集長は、イヌビトのレイノルド・ナカガワ。そのほかにも、トリビトで校正・校閲者のアネモネ、古い人類で雑誌編集部編集長のリリコが登場する。地球は生物が住めなくなっていて、人類が宇宙へ脱出してから数百年が経っており、舞台は月から故郷の地球を眺める新東京。出てくるお話はどれも「宇宙で起きたクリスマスの奇跡」だ。地球は度重なる災害や戦争で住めなくなり、人類は新天地を目指して宇宙へ飛び立ち、数百年が経った時代の話で、月の地下に住む人、天蓋に覆われた高層ビルに住む人などが出てくる。故郷の地球が見える月に住む人もいれば、もっと遠くに新天地を求めた人もいる。そんな中で、ネコビト、イヌビト、トリビト、古い人類が、「時代を超え今と未来の人類に愛される本」を作っていく。ファンタジーと聞くと甘ったるい印象を持つ人もいるかもしれないが、SFファンタジーだからだろうか。SFファンも十分楽しめると思う。はたしてサンタクロースはいるのだろうか。ひとの祈りや願いは通じるのだろうか。ちょっと日常に疲れた大人にもぜひ読んでほしい一冊だった。読後感が温かい。読書会があったら参加したい。ブックサンタでクリスマスプレゼントにもいいかも。

『さやかに星はきらめき』自分の感想
https://togetter.com/li/2255212

さやかに星はきらめき』(村山早紀著)

やまねこの勉強会 

【勉強会については、やまねこ翻訳クラブに了解を得てから公開しています。】

 やまねこ翻訳クラブの勉強会に初めて参加した。やまねこには4月に入会して、おしゃべり会、読書会などに参加してきた。掲示板でのやりとりも活発で、入会してまだ半年くらいなのにずいぶんと充実したやまねこライフを送っている。やまねこの勉強会には参加してみたいとつねづね思っていた。そんなところに、「通訳・翻訳ジャーナル」の誌上翻訳コンテストの案内がツイッターで流れてきた。課題はファンタジー、出題者は三辺律子さんだ。わたしはコンテストへの応募資格はないが、これは訳さなきゃ! と思い、訳してみた。幻想性の高いハイファンタジーなのでなかなか難しい。訳してみると、人と話したくなる。そうこうしているうちに、コンテストの締め切りが過ぎ、掲示板に事後勉強会のスレッドが立った。さすがやまねこである。どういう形での勉強会なのかわからなかったが、参加する方向で考えていた。そんなとき、ツイッターのタイムラインで原書を読んでいるやまねこさんを発見! なるほど。やはり訳すのであれば原書を読んだほうがいいな、と思い、読み始めた。今回の課題は、『A Song of Wraiths and Ruin』(Roseanne A. Brown著)の冒頭である。2冊にまたがる話で、1冊目は475ページ、2冊目の『A Psalm of Storms and Silence』は560ページある。長編ファンタジーは刊行されにくい、と聞くが、課題作の日本語版は三辺律子さんの訳で評論社から発売予定とのことだ。評論社と言えば『指輪物語』を刊行している出版社だ。自分が実際に訳す場合はまずは読んでから訳すので、勉強会の案内を待ちながらまずは原書を2冊読んだ。

 8月20日にコンテストの締め切りがあり、参加者募集のスレッドが立ち上がった。ハンドル名とはいえ、訳書がある会員、これから出版翻訳者としてデビューする会員もいるので、著作権・守秘義務についての説明があった。9月20日に参加表明の締め切りがあり、10月に入ってからグループに分かれて勉強会が始まった。わたしが参加したチームは参加者が4名。初稿、改稿、最終稿と1週間毎に参加者限定の掲示板に公開する。公開された訳文に対して、ほかの参加者がコメントする。そのコメントに対して訳者が訳出根拠などを提示して原文理解が正しいかをすり合わせていく。意見が分かれる箇所については個別にスレッドが立ち、互いに調べたものを共有していく。そんなこんなであっという間に改稿の締め切りがやってきた。わたしは改稿では原文から離れて訳文だけで推敲してみた。ここでつくづくフィクションとノンフィクションの訳し方の違いを感じた。ノンフィクションはノンフィクションで難しさがあるが、今回の課題はヤングアダルト向けのファンタジーということで、『ハリー・ポッター』などに慣れ親しんだ若い世代に読んでもらえるように改稿してみた。これまでにさまざまな勉強会に参加してきたが、初稿、改稿、最終稿と3回訳文を出すことが決まっているものは初めてだった。ましてや先生ではなく同業の翻訳者から、それも複数の翻訳者から訳文にコメントをもらうのは初体験。三者三様のコメントで初めは戸惑ったが、訳出根拠を説明しているうちに方針が定まってきて、最後は最終的に決めるのは翻訳者本人と腹をくくり、今回は3回あるからと改稿はかなり大胆に手を入れてみた。すると案の定、初稿のほうがよかった箇所が出てくる。手を入れれば入れるだけ収拾がつかないかに見えたが、ところどころ初稿の訳に戻して、最終稿を仕上げた。自分ひとりで推敲するのと、第三者の目を通して読みにくい部分を指摘してもらいながら直すのではずいぶんと違い、初校、二校、三校くらいの感覚で取り組むこととなった。10月2日に初稿を提出して、17日に最終稿を提出したので、約2週間にかけて課題文を推敲したことになる。課題自体は500ワードくらいで、実際の本は2冊で1000ページを超えるのでこのペースで訳していては訳し終わらないのだが、改めて「ファンタジー、楽しい!」と思えた勉強会であった。今回は閉じた掲示板での勉強会だったが、勉強会終了後、この掲示板は削除されるらしい。グループに分かれて勉強会をやっていたが、終了後にZoomでの打ち上げがあるとのことだ。次号の『通訳・翻訳ジャーナル』で三辺律子さんによる講評が掲載されると思うが、三辺訳と自分の訳を比べるのも楽しいに違いない。同コンテストの最優秀賞(1名)は賞金が3万円、優秀賞(2名)は1万円だそうなので、やまねこさんから入賞者が出ることを願っている。やまねこ翻訳クラブでは「いたばし国際絵本翻訳大賞」の事後勉強会も毎年やっていたように思うので、応募する人は参加してみるとよいだろう。今年の課題作品は、『If I had a little dream』(作:Nina Laden、絵:Melissa Castrillon)だそうだ。

 AI翻訳が席巻している昨今だが、この熱量で翻訳を勉強している人たちがいるのでまだ大丈夫なのではないかと個人的には感じている。わたしは昨年からヤングアダルトの勉強会に参加しているのだが、やまねこ会員の知り合いも増え、今年の4月に入ってからようやくやまねこ翻訳クラブに入会した。ベテランねこさんたちは面倒見がいいし、若手ねこさんたちは元気だし、層の厚みを感じる翻訳クラブだなあ、と思う。会費も手ごろなので関心のある人は入会してみたらどうかと思う。

 最後になったが今回の勉強会を企画してくれたやまねこさん、同じチームで重箱の隅をつつきあったやまねこさんたちに感謝申し上げます。

隣のおうちの金木犀

『ぼくは川のように話す』(偕成社)の絵本作家シドニー・スミスさんの話を聴いて

ぼくは川のように話す』(偕成社)の絵を担当されたシドニー・スミスさんの講座があるというので、出版クラブまで足を運んできた。日本国際児童図書評議会(JBBY)が主催し、板橋区立美術館偕成社が協力、「子どもゆめ基金」助成活動として開催された。会場とオンラインで約200名が参加したそうだ。当日は講師として絵本作家のシドニー・スミスさん、聞き手は偕成社の担当編集者である広松健児さん、通訳は前沢明枝さん(英日)、中野怜奈さん(日英)という豪華な構成だった。会場には翻訳を担当された原田勝さんもいらしていた。

 講座のタイトルは「美しい光と影を描き出すシドニー・スミスの絵本表現~『ぼくは川のように話す』を通して作者が語る~」。この絵本の文はジョーダン・スコットさん(詩人)によるもので、シドニー・スミスさんは絵を担当されている。絵本自体は42ページですぐに読めてしまうものだが、スコットさんの詩を受け取ってから、絵のラフを描き、最終的に絵本として完成するまでの創作について話を聴いた。

 まずはスミスさんの幼少時代の話から。小さいころに影響を受けた本を何冊か紹介してくれた。そのうちの1冊が、『The Shrinking of TreehornFlorence Parry Heide (著)、Edward Gorey(イラスト)。エドワード・ゴーリーが大好きな子どもだったそうだ。もうひとつ紹介してくれたのは、マザーグースに出てくる挿絵だ。貯蔵室でお手伝いのハンナ・バントリーが羊肉の骨を貪り食っている絵だ。

Hannah Bantry in the pantry,
Eating a mutton bone;
How she gnawed it, how she clawed it,
When she found she was alone!

 この絵本『ぼくは川のように話す』は、吃音をもつ男の子の話なのだが、主人公がnot brokenだと気づく話で、励まされる人も多いだろう、と同氏は語った。作家に文の意味を尋ねるのは野暮かもしれないが、今回は絵の意味を画家に訊き、文からではなく絵からその意味を知るよい機会であった。テキストではなく絵のみでも物語があり、絵はなんと雄弁であるかと気づかされた。

 先日、同じくJBBYのイベントで絵本作家のたてのひろしさんの話を伺った。『どんぐり』という絵本についての会だった。この絵本には文字がない。文字があることで風の音が限定されるなど、読み手の想像力が限定されてしまう。この本も何度でも手にとってしまう1冊だ。絵から絵本を読み解く。文字があるとつい文字を読んでしまうが、絵本の絵から物語を読むことを思い出した。大人になってしまったわたしたちこそ、絵本が必要なのかもしれない。

 『ぼくは川のように話す』の内容についてはぜひ手にとって楽しんでほしいので説明しないが、最後に子どもたちにとって絵本とは何かを尋ねられたときにスミス氏はこう答えている。子どもが自分のプライベートな領域を模索できる安全な空間(safe space for children to explore personal spectrum)。共感を掻きたてるもので、ゲームやスマホとは競合しない、子どもはいつでも絵本を必要としていて、絵本が必要なのは子どもだけではなくて、すべての人が必要としている、と同氏は締めくくった。(会場から、昨今では子どもはゲームやスマホで忙しいので、それに対してどう思っているかと質問があった。)

 同氏のその他の作品として、『おばあちゃんのにわ』が同じく偕成社から刊行されている。これから出てくる新作では、「Do You Remember?」が11月に刊行予定だ。

 現在わたしが参加している勉強会で、次の課題が『おばあちゃんのにわ』の原作『My Baba’s Garden』なのだが、今回の講座を聴いて、いきなり訳しはじめるのではなく、まずは絵から物語を読んでみようと思った。

 同じくスミスさんの作品『このまちのどこかに』(評論社)に出てくる主人公について、会場から質問があった。表紙絵を見てもらうとわかるが、男の子か女の子かよくわからない。これはあえて性別がわからないようにしてあるそうで、男の子か女の子かクエスショニングかよくわからないひとりの子どもの物語として読んでもらえるようだ。

 スミス氏が絵を担当したこの絵本『ぼくは川のように話す』は光と影が美しい。だが美しいだけではなく、吃音をもつ男の子がこれでいいと自分で思えるようになる本なので、ぜひ手にとってみてほしい。冒頭から主人公の目で自分も景色を眺め体験しているような感覚になる1冊である。

『ぼくは川のように話す』
文:ジョーダン・スコット
絵:シドニー・スミス
訳:原田勝
受賞歴:
産経児童出版文化賞・翻訳作品賞(2022)
社会保障審議会児童福祉文化財・特別推薦(2022)
児童福祉文化賞推薦作品(2023)https://www.kaiseisha.co.jp/books/9784034253700

『ヤングケアラーってなんだろう?』ポプラ社

日本国際児童図書評議会(JBBY)が主催するノンフィクションの子どもの本を考える会の課題で「多様性について子どもに伝えるノンフィクションの本」をひとりずつ1冊紹介することになった。「多様性」とはなにか。案内には、「多文化共生、バリアフリー、生物多様性、いじめ、差別、ジェンダー問題等々、さまざまな切り口が考えられる」と書いてある。「多様性」を辞書で引いてみると、「いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと」(デジタル大辞泉)とある。ほかの人と違っていて、子どもたちが悩み、一見わかりづらく、大人の手助けが必要と思われることとして、わたしは「ヤングケアラ―」になっている子どもについての本を選んでみた。

え? それって多様性? と思うかもしれないが、ふつうの子どもと同じように見えて、家庭の事情で子どもらしい生活を送れない子や、相談するほどのことでもないと問題を自分で抱えてしまったり、家族のことだから話すのが恥ずかしいと相談することを諦めていたりする子、ケアが必要な子どもなのに自分自身がケアを提供する側になり勉強や進学に影響がでる子などがいる。見た目にわかりやすく周りから配慮される「多様性」とは異なり、ほかの人とは違うのにふつうに見える、自分自身もふつうに接してほしいと思う気持ちもあり、助けを得られない小中学生がいることを考え、このテーマを選んだ。

今回選んだのは、ポプラ社から2023年4月に刊行された『ヤングケアラーってなんだろう?』(監修 濱島淑恵、協力 黒光さおり)だ。<みんなに知ってほしいヤングケアラー>シリーズの第1巻だ。全4巻あり、そのほかに『きみの心を守るには』『きみを支える社会のしくみ』『ヤングケアラー先輩たちの体験談』がある。

簡単に本の内容を説明しよう。「ヤングケアラ―」とは「家族の世話(ケア)や家事をしているおおむね18歳までの子どものこと」(p2)と書いてある。それってお手伝いじゃないの? と思う人もいるだろう。では「お手伝い」と「ヤングケアラ―」の違いはなんだろうか? 負担が大きかったり、勉強をしたり友だちと遊んだりできなかったり、心や体に不調を感じたりするようになると、それはもうお手伝いではないと同著は説明している。家族の世話をしている子どもはどのくらいいるのだろうか? 2020年度に始まった調査では、小学6年生の15人に1人、中学2年生の17人に1人が家族の世話をしているという(p14, p15)。ケアの対象は主にきょうだい、次いで父母、祖父母である。半数以上のヤングケアラ―がほぼ毎日世話をしていると答え、小学6年生は1日平均2.9時間、中学2年生は1日平均4時間をケアに費やしている。世話を始めた時期は、小学校高学年が多い。相談をしたことがあるかという問いには、約7割がしたことがないと回答している。相談した人はだれに相談したのだろうか。主に家族、友人、学校の先生とのことだ。本著ではその他の相談相手として、保健室の先生、ホームヘルパーやケアマネジャー、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカー、医師や看護師、役所や保健センターの人、近所の人、親戚を挙げている。家族、友人、学校の先生に相談しても解決しなかったら、ぜひ家族以外の信頼できる大人に相談してみてほしい。ではなぜ相談しなかったのだろうか。相談するほどの悩みではないと答えた人が7割以上を占めている。また家族の世話をしていることでやりたいのにできないことは? という問いには、半分以上が「特にない」と答えている。本来であれば大人がするような家族の世話や家の仕事を子どもがすることで、勉強したり友だちと遊んだりという子どもらしい生活を送るべき時期を逃してしまう。やりたいけれどもできないことは特にない、という言葉に安心してはいけないと本著は警鐘を鳴らしている。

本著では子どもの権利についても紹介している。まずは1989年に国連総会で採択された「子どもの権利条約」。その中で定められている4つの権利を説明している。生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利だ。またイギリスにおけるヤングケアラ―の権利も取りあげている。ヤングケアラ―という言葉は日本ではまだ馴染みがないかもしれないが、イギリスでは1993年に論文が発表されており、日本よりも対応が進んでいる。イギリスにおけるヤングケアラ―の16の権利のなかには、「ケアをすることをやめる権利」というのがある。少子高齢化が進み、共稼ぎをする親も増え、家族の世話に毎日3、4時間を費やし、友だちと遊んだり、部活に入ったり、勉強したりという子どもらしい生活ができない子が1クラスに1、2人いる。本著は、特別視が必要なのではなく、ひとりではない、隠す必要はない、相談できる、と思える子どもが増えるように、大人も学べる1冊だろう。ぜひ手にとってみてほしい。

ヤングケアラーってなんだろう?
(監修 濱島淑恵、協力 黒光さおり、ポプラ社)

小網代の森

 昨年から参加している勉強会の課題で文章を書いたのでここにも載せておく。筆者の記憶をもとに書いた文章なので事実と違う場合があることを了承願いたい。

小網代の森

 三浦海岸から134号線の坂をのぼっていくと、のぼりきったところは前方は相模湾、左手は三崎港、右手は鎌倉方面だ。134号線は交差点を右に曲がり鎌倉方面へと向かう。交差点を少し右へ行ったところの左手が、小網代の森の入り口だ。標高約75メートル。県道から逸れて森へと入っていくと、一気に車道からの喧噪が聞こえなくなる。山肌から染み出る清水が小川のせせらぎとなり、森の中を流れていく。遊歩道の階段を下りていくと、初夏には新緑が芽吹く木々に絡みつく藤の花が美しい。階段を下りきると、そこは森の底だ。左右を覆うように木々が生い茂っている。小川の流れを追うように森の中を進んでいく。山肌に目をこらすとむき出しになった土壁の隙間にはアカテガニが潜んでいる。6月になると蛍の舞も楽しめる。春には鳥がさえずり、夏には蝉の鳴き声が降り注ぎ、秋には虫の鳴き声で賑やかだ。覆い被さるように茂る木々のトンネルを、四方八方から聞こえてくる生き物の鳴き声を聞きながら進んでいく。小川の川幅が広くなり、蒲の湿地へたどり着くと、辺りは明るくなり、頭上を覆っていた木々が開け、空が広がってくる。湿地は春には蛙の鳴き声が響き、秋にはトンボが飛び交う。緩やかな傾斜がまだあるようで、山肌から染み出た水は左へと曲がり、海を目指す。しばらく歩くと、左手にアカテガニがダンスを踊る干潟が見えてくる。湾がもうすぐだ。潮の香りがする。小川はすっかり川になり、小網代湾へ注ぎ、相模湾へと流れていく。源流が海へと注ぐまでの営みが、徒歩1時間くらいで見て回れる。京急電鉄の開発に反対して守られた自然。京急三崎口駅から2キロくらいの場所にある。

「想像力の使い道―むこう側にいる人たちへ」原田勝さんの講演を聴いて

 昨年から勉強会に参加させてもらっている先生の講演があるというので、代々木まで出かけてきた。日本子どもの本研究会全国大会の記念講演だ。原田勝さんの勉強会には、月2回参加しているのだが、添削や原文解釈ではなくもっと大きな視点で子どもの本にたずさわる同氏の姿勢を確認したいと思い、足を運んだ。

 日本子どもの本研究会の催しに参加するのは初めてだ。会の案内を見てみると、会員の方々は「教員、図書館員、学校司書、保育士、作家、画家、研究者、評論家、地域文庫やおはなし会を実践する読書ボランティアなど」と書いてある。

 原田氏の講演では、まず始めにヨーロッパ、ソヴィエトなどが描かれている世界地図が紹介された。講演のなかで取りあげられる本の舞台となっている場所に印がつけられている。

 最初に紹介された本は、徳間書店から1995年に刊行された『弟の戦争』だ。 物語の主人公はイギリスに住む兄弟で、湾岸戦争が始まった夏に弟が「自分はイラク軍の少年兵だ」と言い始める。湾岸戦争というとわたしたちはペルシャ湾を思い出すかもしれないが、ペルシャ湾のことをアラブの人たちはアラビア湾と呼ぶ。この講演で繰り返し取りあげられた「想像力を使い」「むこう側にいる人たちのことに思いを馳せる」きっかけとなる本の1冊だ。「むこう側」とは人種、民族、国籍、宗教、性別など自分のいる場所から「むこう側」にいる人たちのことだ。「むこう側」にいる人たちを理解する方法として、外国文学があり、外国文学を通して知識を得て、想像力を使い、自分とは違う境遇にいる人たちを理解する。そういうきっかけとなる本を講演の中で同氏は何冊か紹介してくれた。

 2冊目に紹介された本は、『チャンス はてしない戦争をのがれて』(小学館)。絵本作家であるユリ・シュルヴィッツ氏が子どものころに体験した第二次世界大戦を回想している自伝だ。シュルヴィッツ氏はユダヤ人であるため、ドイツがポーランドに侵攻した際に家族と一緒に祖国からソヴィエト連邦へと逃れ、戦後は親戚を頼ってフランスへ行き、その後はイスラエルへ移住。いまはアメリカに渡り絵本を発表している。生死を分けたのは偶然であり、違う社会体制で生きている人はどうなのか、国を転々としながらも自分のルーツを忘れない人たちがいることを知るきっかけとなる本である。原田氏は20代のときに滞在したソヴィエトでの経験を話し、そこに住む人々の温かさに触れ、国と人は違う、とも語った。

 3冊目の本は、『キャパとゲルダ ふたりの戦場カメラマン』(あすなろ書房)だ。ロバート・キャパは、スペイン内戦、第二次世界大戦、ベトナム戦争と活躍した報道写真家。ゲルダ・タローもキャパと行動をともにした報道写真家だが、スペイン内戦での事故で26歳という若さで他界。キャパは第一次インドシナ戦争に従軍した際に地雷を踏んでこの世を去っている。キャパもゲルダもユダヤ人である。この本もまた「むこう側を想像する」きっかけを与えてくれる。

 4冊目は、『ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯』(あすなろ書房)。この本は、アフリカン・アメリカンに関する本ばかりを扱う書店の話で、格差や差別について教えてくれる1冊だ。日本にも海外ルーツの人が増えている。知識は力になる。外国文学が若い人に教えてくれる力だと原田氏は話す。

 5冊目は、『ぼくは川のように話す』(偕成社)。吃音をもつ男の子の話だ。この本以外にも原田氏の訳書には、吃音をもつ男の子が主人公の『ペーパーボーイ』『コピーボーイ』(共に岩波書店)がある。

 6冊目は、『兄の名は、ジェシカ』(あすなろ書房)。ある日、自慢の兄が口紅を塗り、髪をポニーテールに結びトランスジェンダーであると告白する。体の性と性自認が一致しない兄とその家族の話だ。

 最後に紹介されたのは原田氏の最新刊『クロスオーバー』(岩波書店)。バスケットボールの話なのだが、この本では人種の区別が一切ない。ラップが出てきたり、髪型がドレッドだったりすることでわかりはするが、書かないように努めたとのことだ。

 知識が理解へと繋がる。物語には力がある。物語を通じて、想像力を使い、むこう側にいる人たちを理解する。1時間半の講演だったが、原田氏はそういうことを伝えたかったのではないかと思った。

なぜ子どもの本を訳すのか

 参加しているヤングアダルトの勉強会の課題で書いた文章なのだが、ここに掲載しておくことにする。最終更新日は、2023年3月9日。

なぜ子どもの本を訳すのか

矢能千秋

 ロシアがウクライナに侵攻して戦いが続いている。侵攻から1年が経ち、隣国から武器が供与されて、新しい武器の試験場、古い武器の処分場になっているように見える。陸続きで国境が接する大陸では、よくあることなのだろうか。テレビで戦いのニュースが毎日当たり前のように流れている。

 息子が18歳になったときに自衛隊から勧誘の案内が届いて、玄関で地面がぐらぐらするような恐怖を感じた。個人情報を渡した自治体にも腹が立った。基地に近いところに住んでいるので、自衛隊や米軍に所属する知人はいる。大学へ行く学費のために米軍に入った人もいるし、防衛大に入った人もいる。

 アメリカに留学していたときに、湾岸戦争が始まった。ビデオゲームのように暗闇をぴゅんぴゅんと砲弾が光りながら飛んでいく様がテレビに映っていた。子どものころに『はだしのゲン』を読んで、戦争はいけないものだと思っていた。クラスで戦争の話になり、戦争に賛成の人がいて反論できずに悔しい思いをした。戦いは避けられないのだろうか。

 息子が大学に通い始めた。工学部だ。進路はまだ決まっていないが航空工学に進むようであれば最先端技術は武器に繋がる。平和利用はできないものだろうか。

 お母さんは戦争反対だからね、と息子に言う。

 戦後78年と言っていたが、戦争を体験した人たちが死んでいき、戦争を知らない者たちがまた若者を戦争に送り込む時代がきてしまうのだろうか。毎日のようにロシアとウクライナの戦いの映像が流れてくるようになって1年が過ぎた。子どもたちはどう思っているのだろうか。

 子どもたちに平和教育をすることで防げるのではないだろうか。原爆の被害を受けた広島の教科書からビキニ環礁でアメリカの水爆実験で被爆した「第五福竜丸」の記述が削除されるという。軍拡した政府にとって都合が悪いものは子どもには教えないのだろうか。わたし自身も戦争を知らずに育ってきた。語り部にはなれないかもしれないが、翻訳を通して物語を伝える手助けができるのではないだろうか。

 戦争反対と声高に叫んでみたところで届くのだろうか。理解してもらえるように伝えるのは難しい。『チャンス: はてしない戦争をのがれて』を読んだ。帯には「ぼくと家族が生きのびたのはまったくの偶然(チャンス)だった」と書いてある。淡々と子ども目線で生きのびていく様が語られる。物語に織り込まれた著者からのメッセージ。

 侵攻から1年。戦争をテーマにしている本は増えているのだろうか。日本は島国だけど、隣国の戦争に巻き込まれることはないのだろうか。少しでもよい未来を子どもたちに残したい。そんな本が訳せたらいいな、と思う。

参考:第五福竜丸も記述削除 中学生向け 広島市教委 平和教材から | 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター  https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=129045

翻訳と私:韓日翻訳者 加藤慧さん

2013年5月から2019年10月まで「日本翻訳ジャーナル」で連載していた「人間翻訳者の仕事部屋」「翻訳と私」をnoteで続けてみることにしました。約6年半にわたり、31名の方に寄稿していただきました。ありがとうございます。バックナンバーは、「日本翻訳ジャーナル」でお読みいただけます。翻訳と私 Facebookページも更新していくので、よかったらフォローしてみてください。今後の記事は、Webzine「翻訳と私」にまとめていきます。よかったらこちらもフォローしてください。

note版「翻訳と私」の第10回は、韓日翻訳者 加藤慧さんに、「翻訳と私」と題して書いてもらいました。

プロフィール
加藤 慧 (かとう けい)
宮城県仙台市生まれ。東北大学工学部卒業、同大学院博士課程科目修了退学。大学院在学中に漢陽大学校大学院に交換留学し、韓国建築史を学ぶ。現在はオンラインで韓国語レッスンを行うほか、仙台市内の大学で韓国・朝鮮語の授業を担当。訳書に『僕の狂ったフェミ彼女』(イースト・プレス)、共訳書に『なかなかな今日 ほどほどに生きても、それなりに素敵な毎日だから。』(朝日新聞出版)がある。
twitter: chamchi_kay

note版「翻訳と私」
40. 「いつまでたっても道半ば」伊藤伸子
39. 「大海のひとしずくでも~言葉が生みだす思いをかたちに」玉川千絵子
38. 「翻訳を道しるべに」渡辺はな
37. 「翻訳者になりたい、という問いに答えてみた」矢能千秋
36. 「行き当たりばったりで来た道だけれど、愛おしいと思う」猪原理恵
35. 「二足のわらじで夢に向かう」寺田早紀
34. 「すべてがここにつながっていたと、信じたい」鵜田良江
33. 「どんな自分で一生を終えたいか」山本真麻
32. 「心を決めたらすべてが動きだした〜出版翻訳への道」中村智子

「人間翻訳者の仕事部屋」「翻訳と私」バックナンバー
日本翻訳ジャーナル」:https://webjournal.jtf.jp/back-number/

デザイン: Charlie’s HOUSE

31.「翻訳をはじめて」廣瀬麻微(2019年9/10月号)
30.「幼い頃の憧れが形になった翻訳という仕事」舟津由美子(2019年7月/8月号)
29.「翻訳が教えてくれたこと」児島修(2019年3月/4月号)
28.「子どもの本の世界」長友恵子(2018年11月/12月号)
27.「翻訳と私」矢能千秋(2018年9月/10月号)
26.「本の翻訳と私」最所篤子(2018年7月/8月号)
25.「調べ物という命綱」和爾桃子(2018年5月/6月号)
24.「効率的な翻訳を」上原裕美子(2018年3月/4月号)
23.「優秀な受講生のみなさんに講師が学ぶ翻訳教室」金子靖(2017年11月/12月号)
22.「空白のものがたり」喜多直子(2017年9月/10月号)
21.「ミスのない翻訳チェックをするために」久松紀子(2017年7月/8月号)
20.「世界一面白い本を」白須清美(2017年5月/6月号)
19.「ことばの森の片隅に」星野靖子(2017年3月/4月号)
18.「翻訳を仕事にするまで」石垣賀子(2016年11月/12月号)
17.「なぜ、『出版翻訳家』になりたかったのか」藤田優里子(2016年9月/10月号)
16.「わたしを導いたもの」斎藤静代(再掲、2016年7月/8月号)

人間翻訳者の仕事部屋」(敬称略)
16.「わたしを導いたもの」斎藤静代(2016年7月/8月号)
15.「翻訳と役割語」片山奈緒美(2016年3月/4月号)
14.「『デュカン・ダイエット』をめぐる冒険」福井久美子(2015年11月/12月号)
13.「出版翻訳と軍事とTradosと」角敦子(2015年9月/10月号)
12.「私の選んだ道」久保尚子(2015年7月/8月号)
11.「実務から書籍へ、そして翻訳会社」山本知子(2015年5月/6月号)
10.「しなやかな翻訳スタイルを目指して進化中」倉田真木(2015年3月/4月号)
9.「Out of Line」小野寺粛(2014年11月/12月号)
8.「小さな節目に」熊谷玲美(2014年9月/10月号)
7.「はじまりは気づかぬうちに」北川知子(2014年7月/8月号)
6.「在米翻訳者のつぶやき」ラッセル秀子(2014年5月/6月号)
5.「校正刷りの山の中から」伊豆原弓(2014年3月/4月号)
4.「結局趣味が仕事になった」安達俊一(2013年11月/12月号)
3.「ワタシハデジタルナホンヤクシャ」安達眞弓(2013年9月/10月号)
2.「翻訳書の編集は『生業』であり『使命』」小都一郎(2013年7月/8月号)
1.「大統領を追いかけ続け早十二年」村井理子(2013年5月/6月号)

僕の狂ったフェミ彼女』(イースト・プレス)

【感想】カルロス・ルイス・サフォン『風の影』シリーズ

 カルロス・ルイス・サフォンの『風の影』シリーズを読み終えたので、記憶が新しいうちに感想をまとめておく。2022年8月7日に全国翻訳ミステリー読書会YouTubeライブ第10弾「夏の出版社イチオシ祭り!」で紹介された本の1冊だ。その場で読書会の課題書に選ばれたので、手に取ることとなった。同シリーズは、『風の影』上下巻、『天使のゲーム』上下巻、『天国の囚人』、『精霊たちの迷宮』上下巻の4部作で構成され、バルセロナを舞台として、1917年から現代まで、親子4世代を中心に描いた歴史、恋愛、冒険ありのミステリーだ。

 ふだん、英米小説を読むことが多いので、スペインの巨匠による官能的な描写に戸惑いを覚えることもあったが、スペイン語原書で総ページ数は2520ページにもおよぶ4部作は伏線を回収しながら見事に完結した。『精霊たちの迷宮』だけでも文庫本で1300ページあるが、それほど長さを感じさせない作品だったのでぜひ手に取ってみてほしい。

 簡単に、それぞれの作品について書いてみる。

 まず1作目の『風の影』上下巻だが、舞台は1945年のバルセロナ。「センペーレと息子書店」の息子ダニエル少年の成長譚であるが、父に連れて行かれた「忘れられた本の墓場」で『風の影』という本と出会い、謎の作家フリアン・カラックスとダニエル少年の人生が、時を超えて響き合っていく。下巻の帯に書いてある言葉を借りるとまさに「時を超えて響き合う、二つの人生、二つの恋。ダニエルの『未来』と謎の作家カラックスの『過去』が交差する」だ。

 1作目はそれ自体が単体で完結しているのだが、大作の面白いところは、時代を超えて人と人が繋がり展開する点だ。

 2作目の『天使のゲーム』上下巻は、時を1917年に移し、物語は1作目に登場したダニエルの父と祖父の時代にさかのぼる。今回はもうひとりの作家ダビッド・マルティンが登場する。「忘れられた本の墓場」の管理人イサックなど『風の影』に出てくる作中人物も若返って登場し、1作目で描かれた世界が広がっていく。この作品のエピローグは、1945年6月に終わり、1作目の『風の影』上巻の冒頭へと続く。2作目のあとがきには、こう書いてある。「四つの扉があって、それぞれの入り口からなかに入ると、共通の宇宙がひろがっている」。

 2作目まで読むともう、止まらない。3作目の『天国の囚人』は1作目の続きで、舞台は1957年のバルセロナ。ダニエルは青年になり、父の書店を手伝っている。書店員フェルミン、作家のマルティン、2作目で登場するイサベッラの過去が繋がっていく。3作目の冒頭に書かれている説明がわかりやすいので紹介する。

——

忘れられた本の墓場

 本書『天国の囚人』は「忘れられた本の墓場」の文学宇宙で交錯する四部作のひとつである。『風の影』『天使のゲーム』に続くこの連作は、各巻が完結、独立し、まとまった内容をもつ小説でありながら、テーマ、ストーリーをつなぐ人物やプロットを介して、たがいに結びついている。「忘れられた本の墓場」のシリーズは各々、どんな順に読んでもよく、異なる入り口から、異なる道をとおって迷宮に分け入ることができる。その道がやがて結びあい、読者を物語世界の中心に案内してくれる。

——

 3作目ではダニエルは1児の父親になり、ダニエルの亡き母が明かされる。書店員フェルミンの過去が語られる中で、内戦直後(1936~39年)と作中の現在(1950年代)を背景に物語が展開する。同シリーズは映像化の話が何度もあったそうだが、「読者が頭のなかの劇場で見るものが、最高の映画だ(p372)」として、サフォンは首を縦に振らなかったという。映画向きの作品だと思う一方で、映像では描ききれない作品世界を存分に味わってほしい。

 4作目ではダニエルは店主となり、息子のフリアンも登場する。舞台は1959年、マドリード。『風の影』から15年、遂に物語が完結する。保安組織の捜査員アリシアを中心に、マドリード、バルセロナ、パリ、アメリカと物語は伏線を回収しながら、フィナーレを迎える。11月19日に読書会があるそうなので、これから読めば間に合うかも? そろそろネタバレをしそうなので、この辺で。

札幌読書会 presents カルロス・ルイス・サフォン祭り
第三弾『精霊たちの迷宮』オンライン読書会

11月19日(土)16:00〜18:00